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「礼記」をエンジョイする・その二

さいたま市市民活動サポートセンター九階ラウンジで4月2回目目(通算では89回目)の「四つの幸せ塾」を開催しました。「始めて死する時は、充々として窮まること有るが如く、既に殯すれば、瞿々として求むること有りて得ざるが如く、既に葬れば、皇々として望む有て至らざる如く、練して慨然、祥して廓然たり(親が死んだその初めは誠に悲しみの極みに至った如くであり、やがて仮埋葬ともなれば、物をなくして探し求め、どうしても見つけ得ない如くであり、……、さらに喪を終えたときには、親の遠く去って帰らないことを思うのである)」私個人は、二十年前と昨年の暮れに父親と、母親を亡くしています。教えられなくとも自分の産みの親を亡くす悲しみは、深く、限りなく、その気持ちを表現するのは一部世間的な習慣などに従うにしても、自然な喪失感情は確かに身内に涌いて来ますので、細かな教えや取り決めなどは余り必要でないように思いますが、遥の昔にこの様な細かな教訓が存在した事実は、重く受け止めなければならないと思います。皆さんのお考えは如何でしょう。


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さいたま市市民活動サポートセンター