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詩人としてのキリスト

「四つの幸せ塾」の八月始めの、楽しい学びは「詩人としてのイエス・キリスト」と題して、実施しました。異教徒としての日本人の立場から、キリストの本質に肉薄してみようとする当に画期的でユニークな試みです。

 詩人とは、辞書によると「鋭い感受性を持ち、、特異な直感で自然・万物を端的に捉える事のできる人」であり、わが国の「古今和歌集」仮名序の表現を借りれば「力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思わせ男女(おとこおむな)のなかをも和らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むる」ことの出来る人、を意味します。

 そもそも聖書によれば、「始めには、言葉があった。その言葉は神と共にあり、言葉は神そのものであった。」とありますので、神の子・キリストがその言葉の表現に長けた優れた詩人であったのは、何の不思議もありません。「Ask,Seek,Knock](求めよ、探せ、ドアを叩け)「求めよ、そうすれば、与えられる。探しなさい、それは発見できる。そして、戸を叩きなさい、ドアは開けられる」私の拙い訳でも、簡潔に、力強く、私たちの胸に迫って来るではありませんか。

「野の百合を考えてご覧、苦労したり、糸を紡いだりしていない。なのに、歴史上で最高の栄華を誇ったあのソロモン王ですら、百合の纏うほどの豪奢な衣服を身に付けた事はなかったのだ」拙訳ですら、簡潔にして要を得た表現の妙を感じ取っていただけるでしょう。正に第一級の詩人と呼ばないわけにはいかないでしょう。


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